まばゆい陽光に目が眩みそうになる。
 街並みを飾る街路樹もその強い日差しを浴びて緑を滾らせていた。時折に吹く風に感じる涼やかさがことさらの心地よさを感じさせる。その風を浴びて揺れる木々の影は黒く長く伸びて、その木陰に身体を休められたらどんなに心地の良いことだろうか。
 パン、と大きな音を立ててタオルの皺を伸ばす。洗濯を終えたばかりの白いタオルはひんやりと濡れて心地よい。ハンガーに通して日差しに干す。きっとすぐに乾くだろう。そうして陽光に直に当てて乾かしたタオルはふんわりとして、きっとずっと気持ちいい。
 完全なる環境循環系を完成させたクレイドルにもないものがある。それこそがこの有害な紫外線に満ちた太陽の光で、そしてそんな有害な紫外線に晒して乾かしたタオルの気持ちよさという不思議。
 ビールを咽の奥に流し込んでタバコを吹かす古参の整備スタッフが言っていた。
「身体に悪いものほど美味いし気持ちのいいもんなのさ」
 なるほど、と納得してしまう。してはいけないのだろうけど。
 ああ、と眩しさに手をかざしても手のひら越しにさえ感じられる太陽。
 夏の気配。
 全ての生命がその生を謳歌するべき季節が、全ての生命を平等に害する紫外線の足音を響かせて到来する。
「髪が伸びてきたな」
 洗濯物を干し終えて室内に戻ったセレンに掛けられた言葉。
 唐突な師の言葉に、濡れ手をエプロンで拭っていたセレン・ヘイズは「そうだろうか」と自分の髪をくしゃりとやった。言われてみればそんな気もするが、それでもまだ鬱陶しいと思うほどではない。
「違う、お前のじゃなくて、私の髪だ」
 早とちりだった。なんとなく気恥ずかしくなってぽりぽりと頭を掻くが、彼女はこちらなど見てもいない。微妙なやるせなさにため息が漏れる。
 ひとしきりため息をついたところで、改めてオペレータであり師である女性、霞スミカの頭髪を見やった。
 背中まで届く彼女の黒髪は一本一本が絹糸のように艶めいて、リビングの窓から差し込む陽光を浴びてきらきらと輝いている。セレンの見ている前でスミカは首のあたりから髪に指を通してスゥと払った。そうして払われた髪は一本とて互いに絡み合うことなく、まるでテレビのコマーシャルのように流れる。
 前に師の実年齢にそぐわない肌の美しさについて尋ねたとき、ズタズタにされた――ではなく、その肌の美しさの秘訣はコジマ汚染の副作用だと教えられた。
 どこまでも本気かは知らないが、もしその白い肌によく映える黒髪の美しさの秘訣さえもコジマ汚染の副作用だというのなら、コジマ汚染も悪いことばかりではないなぁとセレンは思う。いっそ全人類コジマ汚染されたらいい。なんというビューティフルワールド。
 まあそんなことを真顔で言ったら脳の髄までコジマ塗れにされた挙句リリアナ辺りに売り飛ばされそうだから口にはしないが。
「ふむ……」
 スミカは暫し指先に髪を絡ませるなどして手遊びをしていたが、やがて思い立ったように立ち上がる。たぷんと乳も揺れる。
「よしセレン、車を出せ」
「はい? まあいいですけど」
「美容院へ行くぞ」
 ――美容院。
 極めて一般的な単語だ。女性はおろか男性が口にしたとしても何もおかしなところのない単語であるが、それが霞スミカの口から出たというだけで「分かります。病院と言い間違えたんですね」という揺ぎない確信が生まれる。
「分かりました。では車の準備をしておきますので、先生も支度を整えておいて下さいね」
「支度? 美容院に行くだけだ。支度もなにもないだろう。財布を持ってそれで終いだ。それとも外出だから化粧のひとつもしろとでも言うか? 馬鹿らしい」
 フン、とスミカは鼻を鳴らした。
 別に化粧の道具を持っていないわけじゃない。化粧をするのが嫌いなわけでもない。
 ただ自分でやると巧く出来ないだけだ。現役だった頃は化粧の必要がある時は同居していたオペレータの女性に化粧をしてもらっていた。自分でも出来るようになりたいと、その女性に手ほどきをしてもらったりもしたが全く上達しなかった。

 ――スミカさんは、いっそ笑えるほどの“ぶきっちょさん”ですね。
 ――……そんなこと言われたの、初めてだぞ……。

 彼女の言葉を思い出すと胸が痛む。リンクスになったことでまともな恋愛やら結婚やらは諦めたが、女であることまで放棄したつもりはない。結構ショックだったのだ。
 以来スミカの中で化粧という言葉は一種の鬼門となっている。だがその事実はセレンには秘密だ。鬼門であることを教えたら鬼門となるに至った理由を聞かれるに決まっている。師としての尊厳を維持するためには、時として己の過去を切り捨て隠匿することも大切なのだ。
 だが鬼門が鬼門であること知らざるが故に、セレンは度々「先生は美人なんだから化粧くらいしたらいいのに」とか「まあ化粧なんてしなくても十分かもしれませんけどね」とか言って鬼門に踏み込んでくる。まったく、まったくこいつは。まったくもう本当にこの馬鹿弟子は。よくないんだよ、そういうの。ムズムズするんだよ、悪い気分じゃないけれど。枕を抱えて布団の中でじたばたするとか、そんな気持ちになる。
「違います。服を着ておいて下さいと言っているんです」
「ああ、なるほど」
 何の恥じらいもなく当たり前のような風情で下着姿のまま日常を送る霞スミカは、呆れたようなセレンに指摘されてようやく納得した。今日の下着の色は紫、ブラはストラップのないカップの浅い型のもの、ショーツは逆に切れ込みの深いギリギリ感漂うデザインだ。貞淑さと妖艶さという女性を彩る二つの要素が決して同居できるものではないということを実地で教えてくれる。こんな姿を若い男の前に晒しておいて、女を捨てたつもりはない、と言い張るのだから恐れ入る。
 そんな師に嘆息して、セレンは前かがみで部屋を出て行った。セレン・ヘイズは今日も若い。そして健康的だった。



 その後、自らの確信に従い精神科とコジマ診療科のあるリンクス掛かりつけの病院までスミカを乗せていった。
「なんの冗談だ」
「ちょ、ま、すいませ――」
 危うく自分がその病院の世話になるところだった。
 なんというカニス。怒れるスミカは正にサベージビースト(獰猛な獣)であったという。




intermission.2 > 接続者たち <A-part>




 空調のよく効いた美容院の混雑はセレンたちの予想以上だった。
 店内の壁に掛けられたカレンダーを見て納得。
 こんな仕事をしていると日付の感覚が曖昧になるのは知っていたが、なるほど、確かに今日は全国的に日曜日である。店内は若い女性で溢れ、スミカが嫌いな性質の喧騒に満ちていた。
 セレンのこめかみを冷や汗が伝う。
 分かる。分かりたくないが分かるのだ。先生の機嫌が加速度的に傾いていくことが――!
「二時間待ちだと?」
「はい、申し訳ございませんお客様。本日はご覧通りの有様でして」
「どうにかならんのか」
 静かに瞠目するセレンである。店が混んでいると聞いてどうにかしろと答える。即答に近い回答に迷いは微塵もない。順番待ちしようという気概が全く感じられない。
「そ、そう言われましても皆さん順番に待ってらっしゃいますし」
 当たり前だが困った顔をする店員。まだ若い彼女はアルバイトなのだろう。チラチラと奥にいる古参らしい店員に視線を送っている。
 嘆息した。スミカにしてみればこんなところで何もせず二時間も待たされるなど論外なのだが、後々のことを考えればここで店員と揉め事を起こしたくはない。
 この美容院を知ったのは暇つぶしに買ってきたカラードホームのタウン誌を読んでのことだった。若い女性に評判というこの店、実際雰囲気もいいし、店員の教育も行き届いているようだ。美容師の腕前次第ではあるが、今だけの印象で評しても今後も世話になりたいと思える。
「仕方ないか……、セレン、聞いての通りだ。車の中で待っていろと言うつもりだったが事情が変わった。私がここにいる間は好きにしていていい。そうだな……三時間後に向かいの喫茶店で落ち合おう」
「了解です」
「好きにしていいとは言ったが、あまり無駄遣いをするんじゃないぞ」
「……はい」
 無駄遣いは駄目というのは分かるが、スミカの基準で語られるとセレンの個人的な買い物は殆ど無駄遣い扱いされてしまうから困る。前にV.I.シリーズというACのプラモデルを買って家で作っていたら、「本物に乗っているのにそんな玩具が今更楽しいのか?」と罵られた。
 分かっていない、先生は全く分かっていない。V.I.シリーズの魅力は精巧な出来栄えのキットだけではない。人によっては付属のデータチップこそが最大の売りと考えるものさえいるだろう。
 この付属データチップは有澤重工傘下企業のゲーム会社がリリースしている「ArmoredCore-X LinksMissions」というゲームに対応しており、このデータチップによってゲーム本体にはインストールされていないパーツデータを取得することが出来るのだ。
 ユーザーの一部からは「またお得意の有澤商法ですか(笑」などという批判の声もあるらしいが、それでもゲームとして気軽にリンクス気分が味わえるのは有澤の同タイトルだけである。批判的なユーザもゲームを楽しむためには結局このV.I.シリーズを買わざるを得ない。セレンもかつてクレイドルに暮らしていた少年時代はこの有澤商法に対して批判的だったが、結局はこうして熱心な愛好家に成り果てている。詰まるところ、それほどに魅力的なタイトルだということだろう。
 さておき、いずれにせよそうしたセレンの楽しみはスミカの目には無駄遣いにしか映らないらしい。誠に遺憾だ。遺憾だが、スミカに逆らうことは出来ないので恐らくこの先セレンがV.I.シリーズを手にすることはないのだろう。尻に敷かれ過ぎている。
 ばれないようにため息を一つ。
「それでは先生、三時間後に」
「ああ、三時間後に」
 心持ちしょんぼりしつつ店を後にする。
 夏の気配を滲ませる街の景色がやけに眩しく見えた。


/


 三時間の自由時間を貰ったはいいが、どうしたものか。
 日差しを避けて街路樹の木陰を選びながら、カラードホーム商業区のメインストリートを行く。
 道脇にはローゼンタールのエンブレムを飾るセレクトショップ。重工業系統合企業という話だったが、商業全般の極集中によってこうした衣料品店も企業連傘下企業の枠内に収まっている。こうした傾向は特にクレイドルにおいて顕著だったが、事情は地上でも同じらしい。
 なんだかなあと思いつつディスプレイのマネキンを見やる。黒髪のウィッグをつけたマネキンを飾るのは長袖の白いワンピースだった。紫外線の厳しくなるこれからの季節を思ってか、ディスプレイのマネキンたちは揃って白い衣装に身を包んでいた。
 先生――霞スミカにもこういう服というのは似合うだろうか、と考えてみた。
 イメージするのは春の草原。吹き渡る春風に背の低い下草が波打ち、所々に咲くタンポポが風にその花を揺らしている。
 スミカはそんな草原を踊るように駆けて、ダンスみたいにくるりと回った。花が咲くようにふわりと広がるスカート。にわかに覗く白い脚線の眩しさに、妄想の世界でセレンは一人静かに鼻の下を伸ばす。そして太ももを飾るのは濡れたような光沢を放つ皮製のガンベルトだ。そしてそこにぶら下げられた重厚なショットガン――……ショットガンだと? クスリと笑って彼女は言う。「この色餓鬼め」ポンプアクション、装填される弾頭、引かれるトリガー、蜂の巣になって吹き飛ぶ自分。馬鹿な。
「……っ!?」
 我に返りセレンは道端で膝を折った。息が荒い。どうやら自分には妄想すら許されないようだ。
 首を振り振り立ち上がった。ジーンズの膝についた砂を払う。
 周囲を見やれば道の真ん中で突然呼吸を乱して膝をついたセレンに周囲の視線が集中していた。なんでもないですなんでもないですと手を振って視線を追い払う。
 そしてため息。
 ここ最近薄々と感じていたことがある。というのは、最近の自分は先生、霞スミカに対してビビり過ぎではないだろうか、ということだ。
 養父を通してスミカに紹介されたのが今から一年と少し前のことになる。あの頃もまあ、著名なリンクスだった人間を師として仰げるということで敬意を持って接してはいたが、流石にこんな、不埒な想像をするだけで膝が震えたりとか、呼吸困難になったりとかはしていなかったはずだ。不埒な想像をしていたこと自体は否定しない。だってスミカは美人だったし、セレンという名を与えられる前の青年はどこまでも少年で、そんな彼の瞳に映るスミカ先生はとてもまいっちんぐだったのだから。
 だからそう、劣情混じりの敬意という微妙極まる感情をもってスミカに接していたことは否定しないが、だが今のように敬意より先に畏怖とか恐怖とかが表に出るような付き合いはしていなかったはずなのだ。
 このままでいいのだろうか……ふと、そんな疑念が頭を過ぎる。
 リンクスとオペレータはお互いがお互いを支えるパートナー、互いの立ち位置の対等なるべき比翼の鳥であるはずだ。
 それが今はどうだ、基本的にも応用的にも最近の自分は霞スミカのイエスマンである。彼女の命令さえあればクレイドルに特攻しての千万単位の虐殺をさえ粛々と行うだろう。
 夢想する。
 高高度の空を悠然とたゆたうクレイドルに、突如響く不明機接近の報。防衛部隊たるノーマルACが船体各所のハッチから姿を現す。動きの遅い彼らをセレンは嘲るようにオーバードブーストで飛翔、頭上をフライパスしながらレーザーライフルを弾雨の如しと浴びせ掛ける。ノーマル爆散の灯を後光に背負い、レーダーに捉えた目標、クレイドル基部に目掛けて背部兵装のグレネードを叩きこむのだ。推力を失い煙を噴いて落ちてゆくクレイドル。中には突然の襲撃に脱出も出来ず取り残された人々が悲鳴を上げている。彼らの悲嘆と怨嗟は怒火となって清浄なる空をも燃やすだろう。そこに響くスミカの高笑いと、それに追従してやはり高笑いを上げる自分。
 ひとしきりの妄想を終えてセレンは一人静かに仰け反った。幾らなんでも“その”ビジョンが鮮明に見えすぎである。
 やはり、よくない傾向ではないだろうかと思う。
 オペレータの指示に従うのはリンクスとして当たり前。それはリンクスとオペレータの信頼関係の現われだ。
 しかしそれにも限度がある。リンクスはオペレータの操り人形ではないのだから、嫌なことは嫌と言うべきだし、リンクスばかりがオペレータの言うことを聞くばかりというのでは駄目なのだ。そのはずなのだ。
 ううむ、と考える。
 たまにはスミカに反抗して見せたほうがいいのかもしれない。いやいや、しかし明確な根拠もなしに徒に反抗しても意味は無い。スミカが誰の目にも明らかな過ちを犯した時、それが反抗すべき時なのだろう。だがあの人がそんな分かりやすいミスをしてくれるだろうか――。
 思考のドツボに嵌りかけた、そんな時だった。
 クイクイ、と背後から袖を引かれるのを感じる。
 全身から冷や汗が噴出し肌が波打つように粟立った。
 恐るべき予感を覚えつつゆるゆると振り返る。あの人ではない、あの人は今美容院にいるはずだから、今自分の袖を引いているのはあの人ではないはずだ。だがしかし、こういうタイミングであり得ないはずの奇襲を仕掛けてくるのがあの人であり、あの人らしさそのものだとも言える。地獄耳というどころではない。
 だから絶望ゆえに全身瘧に掛かったようにビクつきながら振り返ったセレンは、自分の袖を引いていた人物の姿を視認した瞬間、その場に崩れ落ちたくなるほどの安堵を覚えた。
「あの、少しいいかしら?」
 セレンの袖を引いていたのは小柄な女性だった。
 波打つ金髪に病的なまでに白い肌。もしかしたら本当に病気なのかもしれないとセレンが思ったのは、その儚げな雰囲気もさることながら、彼女が車椅子に乗っていたことにも起因する。
「道に迷ってしまったの。もし知っていたらで構わないのだけど、レオーネ・メカニカ社のコジマ技術研究所まで案内してもらえないかしら」
 困ったように眉を寄せてその女性は、既に存在しない企業の名前を挙げたのだった。


/


 レオーネ――正式名称はレオーネメカニカ社。
 国家解体戦争において企業軍の一翼を担ったハイテク系統合企業である。セレンの愛機ストレイドに使用しているテルースフレームの元々の開発元がここだ。師の霞スミカが現役時代に所属していた企業もここである。
 リンクス戦争当時からレオーネメカニカ、メリエス、アルプレヒト・ドライスの三社からなる緩やかな経営共同体、インテリオル・ユニオンを形成していたが、リンクス戦争の終結に伴ってレオーネとメリエスが完全なる経営統合を果たし、正式にインテリオル・ユニオンを社名とする一企業へと改組された。その意味するところはつまり最早この地上にレオーネメカニカの名を冠する企業が存在しないということであり、引いてはセレンに声を掛けてきたこの女性――、彼女の目的地である研究所とやらもこの世界のどこにも存在しないということなのだ。
 まあ普通に考えればレオーネではなく、インテリオルのコジマ研究所に連れて行けばいいんだろうが、と考えつつ、ちらりと彼女の後頭部に目をやる。セレンは今彼女の車椅子を押す形で歩いているのだから、目を向ければ視界に入るのはどうして後頭部だ。
 視線に敏感なのか、あどけない所作で振り返りセレンの瞳に正面から視線を返してきた。
 そして、ニコリ。
 柔らかく笑みを投げかけてくる。
 我が師とは対極に位置するだろう純真無垢を絵に描いたような笑顔を浴びせられ、セレンは内心静かに仰け反った。どうだ、この棘も毒も牙もない微笑み。本来女性の笑みとはかくあるべきだろう。彼女は恐らくセレンよりも年上なのだろうが、その笑顔のあどけなさ、柔らかさゆえに下手したら自分よりも若く見える。
「ごめんなさいね、お兄さん。道案内してもらえるだけじゃなくって、車椅子まで押してもらっちゃって」
「気にしないでください。どうせ暇を持て余していましたから」
「そうなの? 折角の日曜日なのに、なにか予定があったんじゃなくて?」
「一応待ち合わせの約束がありますが、まだ三時間も先の話です」
「あら」
 女性は面白がるような顔をした。
「約束の三時間前に町に出て、それで時間を持て余してるなんて……うふふ、お相手は恋人さんかしら」
「こ――、恋人!?」
 あの霞スミカが、自分の!?
 衝撃的な女性の発想にセレンの妄想回路が誤作動する。
 ――ふん、約束の時間前にはちゃんと来ていたようだな。待たせたか?
 ――いえ、今来たところです。
 ――御託はいい。何分前から待っていた?
 ――……180分前からです。
 ――殊勝な心がけ、と言いたいところだが、この私との待ち合わせだ。三時間前行動、まあ当然だな。いいだろう、荷物を持て。もちろん今日は全部貴様の奢りだ。……なに、手持ちが心もとない? 馬鹿野郎が。もう貴様とは一緒にいれんよ。
「あらどうしたのお兄さん? 何だか凄く切なそうな顔……はしてないけど、そんな雰囲気をしているわ」
「あなたの瞳にそのように写ったのなら、それはその通りなのでしょうね」
 妄想の中での出来事とはいえ一瞬で振られた。実際切ない。
「ところで行き先はレオーネのコジマ研究所……で本当にいいのですか?」
「ええ」
「インテリオルの研究所ではなく?」
「? レオーネはインテリオルグループの一員だけど、私が行きたいのはレオーネの研究所で間違いないわ?」
「そうですか」
 女性の車椅子を押しながら携帯の地図情報を参照する。検索をかけてもやはりレオーネのコジマ技術研究所なんてものはカラードホームには存在していない。インテリオルグループの研究所ならあるが、それはコジマ技術の研究所というよりは、ごく普通の病理学研究所だ。
 存在しないはずの企業に、存在しない研究所。
 ただの勘違いとか覚え違いなのかもしれないが、この女性の言っていることは何処かおかしい。
 まあいい、とりあえずはインテリオルの研究所まで彼女を連れて行き、そこが目的地でないというなら、またカラードホームの都市管理課にでも電話して問い合わせてみればいいだろう。研究所までは歩いて15分ほど。散歩だと思えば丁度いい。
「あなたはそこにどんな用事があるんです?」
「うふ、お兄さん、私のことが気になるの?」
「……気になるというか。あんまり普通の人はコジマ技術の研究所になんて用ありませんよね? 関係者の方で?」
「関係者……関係者といえば関係者になるのかしらね? うふ、でも秘密。いわゆる企業秘密。そして乙女の秘密でもあるわよ? あは、ごめんなさい。もう乙女なんて言っていい年じゃなかったわね」
「十分お若く見えますよ」
「ありがとう、お兄さん。お兄さんも素敵よ。若くて可愛い」
「あんまり嬉しい褒め言葉じゃあないですね。でもありがとうございます」
「そういう素直なところが可愛いのよ」
 軽く握ったこぶしで口元を隠して、女性はくすくすと楽しそうに笑った。
「ねえお兄さん、さっき待ち合わせのお相手は恋人じゃないって言ってたけど、本当にそうなの?」
「そうですよ。あの人が恋人だなんて、恐れ多くも恐ろしい」
「恐いばっかりじゃないの……ふぅん、でもその人が恋人じゃないにしても、ちゃんと恋人はいるんでしょう?」
「ちゃんとしてなくてすみません」
「いないの?」
「ええ、まあ」
「あらあら、そうなんだぁ……ふぅん」
 意味深げにこちらを上目遣いで見てくる女性。相手が車椅子に乗っているのだから見上げる形になるのは当然なのだが、その視線には何か興味関心以上のものが込められているのをセレンは感じていた。
 なんだこの流れは。ひょっとしてフラグなのか、フラグが立ったのか――と持ち前の無表情で答えつつも内心で勝鬨を上げる準備をするセレンである。
 この女性に告げた通り、セレン・ヘイズには恋人がいない。もちろんリンクスになるための修行をする以前――養父からの仕送りを受けながらクレイドルで安穏と学生をしていた頃、あの平和な時代にはごく真っ当な恋もしたし、それなりに可愛い恋人もいた。その恋人は何だかよく覚えていないが些細なすれ違いが理由で別れた。
 セレンがクレイドルを飛び出したのはその恋人と別れた直後くらいのことで、その後は今日に至るまでそれなりに殺伐とした生活をしていたため、恋人なんて作る余裕はなかった。その上霞スミカと起居を共にするようになってからは悉く女性への幻想が打ち砕かれる日々と、一方で女性への劣情ばかりが募る日々だったため、ぶっちゃけ今のセレンは女に飢え気味である。
 そこにこのようにたおやかで儚げで魅力的な年上の女性とのフラグ、とあってはセレンが得意のポーカーフェイスの下で法螺貝を吹く準備を始めたとしても、それは無理のなからんことだろう。
「あのね、お兄さん」
「はい、なんでしょう」
 見上げてくる女性の上目遣いに、精一杯の紳士な態度で返事をする。気がつけば無意識に手を紳士的に胸に当てていた。
「私ね、妹がいるのよ」
「妹さん、ですか?」
 間を外されたようで内心がくっと姿勢を崩す。しかし現実のセレンの肉体は胸に手を当てた紳士スタイルのまま不動だ。ポーカーフェイスは伊達ではない。
「ええ、大切な妹よ? もうずっと入院しっぱなしの私の面倒を嫌な顔一つしないで受けてくれてね。だから私はあの子を大切に守ってあげなくてはいけないし、今日までもずっとあの子を大切に守ってきたわ。そしてこれからもずっと守っていくのよ?」
「……それは、素敵ですね」
「でしょう?」
 花の咲いたような笑顔を浮かべる女性だ。
 しかしセレンはまた彼女の言葉に違和感を抱いていた。ずっと入院しっ放しであるという言葉と、今日までずっと彼女が妹さんを守ってきたという言葉。この二つの言葉は矛盾している気がする。
「ちょっと頑固なところもあるけれど、とても真面目で健気な子、それが私の妹なの。年が離れているせいか、とっても可愛くてね? ねえお兄さん、あなたは今、年はお幾つ?」
「20歳です。今年で21になりますね」
「ふうん……じゃああの子の方が三つくらい上になるのかしら」
 その言葉にセレンは無言のまま驚愕した。年の離れた妹と言っていたはずだが、その妹がセレンよりも年上。
 この女性、いったい何歳なんだ……?
「こら」
 ぽすん、とお腹の辺りに軽い衝撃。女性が眉根を寄せてセレンのお腹を軽く小突いたのだ。
「今、失礼なことを考えたでしょう?」
「……なんのことでしょう?」
「そこでとぼけるのは可愛くないわねぇ。うふ、でも許してあげます。バレバレなのに誤魔化し通そうとしているところが何だか可愛らしいから」
 くすくすと本当に楽しそうに笑う。悪戯っぽく目を細めて、女性は「ちょっと耳を貸してくれるかしら?」と言った。
 言われるままに女性に耳を寄せると、甘やかな香水の香り鼻腔をくすぐる。そして転がる鈴のような彼女の声が、セレンの耳元をくすぐった。
「ねえお兄さん」
「なんです?」
「あのね、私の妹に会ってみない?」


/


 美容室の待合室でスミカは何か妙な予感、胸騒ぎのようなものを覚えて流し読みしていた雑誌から顔を上げた。
 強いて言えば焼肉、金網の隅で丹念に育てていた特上カルビを、網に肉を並べている間にセレンに掻っ攫われたときに覚えたような言いようのない不快感、屈辱感に身を襲われたのだ。
「なんだ? 虫の報せか?」
 周囲を軽く見回してもどこかの誰かがスミカに何かをしたとか、例えば殺気を叩きつけてきたとか、そういう気配はない。といってもそもそも殺気なんぞ叩きつけられても生身のスミカにはそれを感知する技術はないのだが。
「虫の報せですか。前々から思っていたのですけど、あなたは時々やけに古風というか、ユニークな言い回しをしますよね」
 その声はスミカの真横から唐突に投げかけられた。
 内心でぎくりとしつつ、いつの間にか隣の席に座っていた女性を見る。
 見覚えのある顔だった。確実に知っている顔だった。
「お前、いつからそこに?」
「つい先ほどですよ。お隣に失礼したときに声をかけようかとは思ったのですが、熱心に雑誌を読まれていたようでしたので。では改めてこんにちは、霞スミカさん。偶然ですね」
 偶然なんてものの存在など、まるで信じていないかのような口調で、インテリオルユニオンとのミッション仲介人の女性は一分の隙もない丁寧な化粧で唇を艶めかせ、そう挨拶の口上を述べたのだった。
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